自然とたわむれる特権を持つ人々

雨、あめ
雨、あめ
posted with 簡単リンクくん at 2005. 6.12
Spier Peter
評論社 (1984.6)


梅雨である。
なぜ梅雨が鬱陶しいかというと、あらゆるモノを乾いた状態にしておく為に、いちいち余計な配慮が必要になるからである。
中でも特に面倒なのがいかにコドモらを濡らさずに移動させるかという問題だ。何しろ奴等は放っておけば嬉々として雨に打たれ、水たまりに突進していく。後に残されるのが山のような洗濯物だけならまだしも、下手すると翌朝あたりに突然の発熱というオマケが付くので、油断がならない。
 

本当は、オトナだって時には雨に打たれたい。それも通り雨のようなささやかな水滴ではなく、滝のような雨に打たれてずぶ濡れになってしまいたい。
しかし、オトナがそれをやるにはかなり勇気がいる。何故なら、分別あるオトナは雨に濡れてはならないという不文律が日本(の、特に都会)にはびこっているからである。これにより、人は雨に濡れているオトナを見ると
1.雨具を忘れたうえに臨時に入手できなかった間の悪い人
2.失恋などで周りが見えなくなっている可哀想な人
3.近づいてはいけないアブナイ人
のどれかと見なす。間違っても「自然と戯れるピュアな人」などと思ってはもらえない。

この絵本では、二人のコドモがそれこそ無邪気に思う存分雨を楽しんでいて、うらやましくなる。長靴の中に水が入ると歩くたびにチャプチャプと音がして、気持ち悪いんだけど笑ってしまう、あの感覚を思い出す。ちょっとした思いつきからワクワクするような経験まで、バラエティに富んだ雨を楽しむ方法が鮮やかに描写されている。
絵本の最後には夜まで降り続いた雨がやんで美しい夜明けを迎える素晴らしい情景が描かれている。この展開だけでも一見の価値がある作品である。

この絵本の作者ピーター・スピアー氏は、この作品以外にも子どもの自由奔放さをテーマにした絵本をいくつか出している。作中のコドモたちの行動はしばしば天真爛漫を通り越して悪魔の仕業に思えるほど大胆なのだが、彼らに接する作中のオトナ達は驚くほど寛容なのである。この「雨、あめ」でも、しまいには傘もぶっ壊しずぶ濡れになって帰宅したコドモたちを、迎えた母親は怒るどころかすぐに温かい風呂場へ通し、笑顔で洗濯物の山を受け取り、ひとっ風呂浴びてきれいさっぱりしたコドモたちにすかさず温かいおやつを出す。ありえないぐらい良くできた母親である。できることなら私もそんな母親になりたい。というか、私もこんな母親に育てられたかった。
また、スピアー氏の作品はいつも素晴らしい観察眼で隅々まで細かく描き込んであるので、小さな発見にクスリとさせられることも多い。そう言えば、うちの坊主も放っておくといつも半ケツ丸出しだ。

オトナになっても日頃の分別を忘れておおっぴらに自然と戯れる方法が一つだけある。それは、幼いコドモの活動に便乗させてもらうことだ。保護者のふりをして自分が思いっきり楽しむのである。
よし、今年こそ梅雨が明ける前に親子で「雨、あめ」ごっこをしに行こう。

 
 
【この絵本に関するお気に入りあれこれ】
・絵本でほっとタイム♪/空さんのどこまでも寛大な母親に敬意を表する気持ちに共感!