上質な変な老人になりたい

0688070353Could Be Worse!
James Stevenson
William Morrow & Co (P) 1987-05-01

by G-Tools
麻生 九美 / Stevenson James
評論社 (1979.11)
この本は現在お取り扱いできません。オンライン書店bk1で詳細を見る
 
この1週間、あちこちのブログで長新太さんの追悼記事を読んだ。その中で出会った言葉の中で、特に印象的だったものがある。雑誌の取材で長新太さんご自身が語ったという
「上質な変な人っていいよね。それがなかなか、いないんだ。」
絵本と子どもの本が好き!/hirobonさんの記事より)
この言葉は、私にとって新たな人生の目標を考えさせてくれた。
 

私は変な人が大好きだ。超マイペースな人、アクの強い人、敵の多い人、オタクな人、危なっかしい人・・・そんな人々にやたらと惹きつけられてしまうのは、類が友を呼んでいるのだろうか。
特に、それが年配の方だったりすると憧れと尊敬があいまって一気にファンになってしまう。何故なら、人は年齢を重ねながら丸くなると言うではないか。齢を重ねつつ突出した個性をキープするというのは並大抵のことではない。思うに、ある程度の年代まで奇人変人を貫いてきた人というのは、少なからず他人に理解されなかった経験があるせいか、他人の個性的言動に対して鷹揚で、一言で言うと凡人よりも器が大きいような気がする。また、下手するとただのひねくれた偏屈ジジィになりかねない生き様をいかに昇華するか、そこに上質な人間か否かがあらわれるのかも知れない。

せっかくなので私が憧れる「上質な変な老人」を絵本から一人ご紹介しよう。長新太さんを愛する人々が記した追悼文を読みながら、私がずっと思い浮かべていた絵本だ。残念ながら邦訳版は絶版のようであるが、ゼヒとも図書館などで探して見てみてほしい。復刊投票は、こちら。
さて、この絵本のおじいちゃんときたら、器が大きいなんてもんじゃない。何しろ何が起ころうと「それでいいのだ・・」と達観している。悟りを開いた坊さんのように、決して動じないのだ。何故ならば、おじいちゃんがその長い人生でくぐり抜けてきた数々の修羅場に比べたら、孫たちにとっての大事件など日常茶飯事にすぎないのだから。
原題ではこのおじいちゃんの決まり文句「それでいいのだ」は "Could Be Worse"、つまり「まだマシだ」と言うわけだが、ではどんなことに比べてマシなのかと、孫に語って聞かせるおじいちゃんのお話が傑作なのだ。なるほど、これを聞いた子ども達はこの先どんなことが起ころうとも「それでいいのだ!」と前向きに対処していけるであろう。
これぞ亀の甲より年の功、おじいちゃんは偉大なり。


自分が死んだとき、その喪失感にひたすら悲嘆に暮れて夜が明けない人がいたら、それはたいへん有り難いことだけれど、きっと「死んじゃってゴメンね」と申し訳なく思えて成仏できない気がする。むしろ、死んだ後も誰かの心の片隅にひっそりと存在し続けて、陰ながらその人の「生」を精一杯応援できるような、明るく前向きな死に様に私は憧れる。
そのためにはやはりそれなりの存在感を確立すべく、生きているウチに精進しなくては!
千葉敦子さんもおっしゃっているではないか。「よく死ぬことは、よく生きることだ」(←名言・名著である)と。
というわけで、今日も行こう、我が道を。(不良主婦の言い訳)