セルフイメージの呪縛

長年の宿題だった「100万回生きたねこ」にいざ取りかかってみたら、たくさんの人が色んな考え方を披露してくれた。どうやらこの絵本のテーマになっているらしい「人生」「生死」「愛」なんて類をどう考えるかは、あまりにも個人的な価値観に基づくものだし、ふだん口に出して人に語ることではないはずだから、余計にそんな内面暴露作業につきあってくれた人々の勇気と酔狂に感謝したい。皆さん、本当にありがとう。

ところで、コドモのあらゆる方向に張りめぐらされた鋭いセンス・オブ・ワンダーには到底及ばないが、いい歳をしたオトナでも些細な発見に大感激したり、卑近な事象にふと心奪われたりすることがある。私の場合は特に、この絵本の解釈のように、ある物事について新たに納得できる考え方を得られたときの目からウロコが落ちる瞬間、心が涙ぐむようなその瞬間、時にそれは痛みを伴うが、まだまだ感性が死んでいない、価値観が凝り固まっていないと分かってホッとしたりもする。

前回の記事でこの絵本のことを「どうしても泣けない」と書いた私だが、思いがけずそこに寄せられた文章のひとつを読んで号泣してしまったので、少しだけ追記を書くことにした。というわけで、このヘヴィーなテーマにこれ以上つきあおうという物好きな方は、

こちらへ。

いつも誰かに愛され、守られてきた自分が、
自分と同じようにクールな白猫に惹かれていくうちに、
はじめて、自分の本当の気持ちと向かい合えるようになる。
そして、本当の自分をさらけ出し、ありのままの自分を受け入れられるようになる。
かあさんのお話ダイアリーより)

きっとどこかでこれと似た書評も読んできたはずなのに…ka-3さんのこの語り口だけが、なぜか私の心に突き刺さった。
それは、とてもとてもやさしく、私の一番弱いところを突いてきた。
鈍感で傲慢だったのは私だった。私がこの猫を忌々しいと思ったのは、昔の自分の嫌なところを見ているようで苦しく不快だったからだ。

ねこは自分が好きで他の誰も愛せなかったとあったけれど、ka-3さんがおっしゃるように、ありのままの自分に向き合うのが怖かったんじゃないだろうか。でも、ありのままをさらけ出せずにいて、自分のことが好きだなんて言えるはずがない。ねこが好きだったのは、ありのままの自分ではなく、他人に愛される自分だった。愛される自己イメージにしがみついて、本当の自分からはひたすら目を背ける人生。きっと、本当はねこは自分を好きなんかじゃなかった。むしろ大嫌いだったのかもしれない。でもそれを認めるわけにはいかないから、自分に目を向けない為に、ひたすら周りを憎むしかなかった。なんと不毛でむなしい生き様だろうか。
そんな砂を噛むような毎日からねこを救い出してくれたのが、しろねこだった。しろねこは、彼をことさら賞賛したりあがめ慕うことなく、ただ、ありのままの彼をそのまま受け入れただけだった。だからこそねこの方も、初めて安心して自分をさらけ出せるようになったのだ。
そう思ってもう一度この絵本を読み返したら、しろねこが逝くシーンでどうにも涙が止まらなくなった。
ありがとう、しろねこ。あるいは、しろねこに出会わせてくれた作者に心からの感謝を。

ああ、やっぱりこの宿題は、とてつもなく難題だった。でも自分なりにやり終えた今は、清々しい気分だ。


ところで、ひとつ面白いことを思い出した。
私の連れ合いは、職場で有名な俺様キャラな人間なのだ。なんせ、特技は演説(笑)。そして彼は人前で絶対に涙を見せない。無理に泣かせるシチュエーションに持っていこうものなら逆に怒り出すぐらいで、映画ですら「泣かせ系」だと警戒して一緒に見ようとしない。あくまでも感情抑制のできるクールな男であろうとする彼のスタイルは、一日のウチに四季がめぐる感情型人間の私とは対照的で、時々お互いのことが異星人のように思える。でも、そんな彼が今までにたった一度だけ、私の前で号泣したことがある。あれからもう十数年になるが、その時の驚きと奇妙な感慨を、私は一生忘れないだろう。あの日の彼は、この絵本のとらねこに似ていた。