一度きりの人生を全うできる幸せ

4061272748100万回生きたねこ
佐野 洋子
講談社 1977-01

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いつかはやらなきゃいけないと思いつつどうにも気が進まない宿題のように、その解釈を自分に問うことを無意識にずっと棚上げしてきた絵本がある。「100万回生きたねこ」というその絵本は、絵本好きならずとも一度は目や耳にしたことがあるであろう、佐野洋子作の超有名なミリオンセラーである。
 

私にとってこの絵本がなぜそんな微妙な位置にあるのかというと、とにかく泣ける絵本と言えばこの絵本、というぐらい号泣必至の感動作として有名なこの作品を、私は20年以上前から今まで何度読んでもどうしても泣けないからである。
若い頃は「この本で泣けない自分はよほど冷たいヤツなのだろうか」と悩み、ムキになって繰り返し読んだものだが、それでも私の涙腺はピクリとも反応しなかった。何も感じなかったわけではない。むしろ読むたびになんとも名状しがたい読後感をどう吐き出すべきか、数時間も悩む羽目になった。ならば私と同じようにすんなりと感動の涙を流せないでいる同志はいないものかと、今までにそれこそ100以上のレビューや書評を見てきたと思うが、残念ながらこれまで我が意を得たりと思える文章に出会えずにいたのである。
ところが、ようやく私とこの絵本との長年のわだかまり解消のきっかけとなる文章に出会えたのだ!ああなんとブログは素晴らしい。ありがとう、山猫編集長!!

では早速その山猫編集長の記事をヒントに、私がこれまでこの絵本を読む度に感じていたことを改めてまとめてみると…
100万人もの人間に愛されていながら、一人として自分が愛せる相手に巡り会えなかったとは凄まじく不幸な猫だ。その不幸は猫自身の鈍感さ・傲慢さが招いたものとはいえ、どうせ満たされない人生と思いながら100万回も生き返らされるのは地獄の苦しみであろう。この猫は自分の呪われていると言っても良いほどの悲惨な運命を、自分を好きだと思いこむことで紛らわせていたのかも知れない。
そう思った私には、この「100万回も死ねなかったねこ」がしろいねこと出会い、自分以外の者を愛する喜びと悲しみを知って、永遠に続くかと思われた業をようやく断ち切り悲しみの果てに死んでいく様は、これ以外に考えられないほど望ましい帰結、つまり美しきハッピーエンドに思えたのだ。

これがもし、初めて愛した運命の女が死んで自分も後を追ったはずなのに、またしても自分だけ生き返ってしまったという話ならばそれこそ悲劇だ。もしこの話がそういう結末になっていたら、私は間違いなく号泣しただろう。
死にたくても死ねない業を背負う者の悲惨さといえば、映画「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」ブラッド・ピットが演じていた人の心を捨てきれないヴァンパイア、ルイの生き様を思い出す。彼は人を傷つける自分を憎み、愛する人を失って絶望しても死ぬことがかなわない自分の運命を呪いながら生き続ける。一方、同じ吸血鬼ながらトム・クルーズ演ずるレスタトは自分が大好きで自分以外の全てを憎み、不死身の生を満喫し、何があろうとしぶとく生き続ける傲慢なキャラクターだ。誰かにそっくりではないか?


話を絵本に戻そう。この絵本のエンディングで私が感じたのは、悲しみでも同情でも共感でもなく、ひたすら「納得」と「安堵」であった。いい話ではあると思うが、それはこの絵本の主人公にとってハッピーエンドだったからそう思うのであって、私自身がカタルシスを得られるものではなかった。
しかし、世の中にはこの絵本で泣きまくる人がゴマンといる。何とか彼らの感情を理解したいと思っていた。

悩む私にヒントを授けてくれたのは、永井俊哉氏の「人はなぜ泣くのか」という論文だ。
この絵本を読んで喜びの涙や憤怒の涙を流すことは考えにくい。ではやはり、多くの人にとってこの絵本はあくまでも悲劇なのだろう。号泣によってカタルシス的効果を得るには、まずは起因となる悲劇の主人公に感情移入する必要があるらしい。おそらく私はここで失敗しているのだ。
なぜなら私はこのねことは逆に、ずっと自分が嫌いだった。人に愛されることを切望し、恋愛するたびに「この人のためなら死ねる」と本気で思っていたのは、相手が誰よりも「愛される自分」を実感させてくれる存在だったからだ。愛に飢え(?)愛されることが当然とは思えない自分にとっては、このねこの傲慢さは理解しがたいものであり、猫冥利につきる我が身の幸せに気づかない愚かさを忌々しいとまで思ったものだ(猫とはもともとそういう動物なのかも知れないが…)。幸い、私も30余年の間に出会った自分を認め好意を寄せてくれる人々の共感・共苦、時には賞賛の言葉に励まされ、少しずつ自分を好きになった。今となっては、(この記事のように)マイナーな価値観を持っていることを他人に堂々とアピールできるぐらい、健全な自己肯定感を持ち得ている。ありがたいことである。
では、多数派である「この絵本で泣ける人々」は、どうなのだろう。それだけたくさんの人が多少なりとも幼い頃から自己肯定感を持って生きているのだとすれば、それはそれで喜ばしいことだと思うが、案外このねこ同様に自分が愛される存在であることに疑いを持たず、自分がいかに恵まれているか気が付かない人も多いのかもしれない。
「自分のことはまあ好きだし人生に大きな不満もないが、でも絶対的な何かが足りない。長い旅路の果てにその何かをようやく見つけたが、それは自分が死ぬときだった…」
そんな風にこの絵本に感情移入できたなら、確かに涙が止まらなくなりそうな気がする。

もうひとつ、ねこと私の大きな違いがある。私は自分を好きになるにつれ、人を好きになることが得意になった。平凡な人々の愛すべきところを見つけるのはもはや私の特技といってもいいぐらいだし、特に気に入った相手なら、それこそ全身全霊を込めてありったけの愛情をぶつけてしまう。(オトナになってからは重すぎる愛情は相手にとって負担になることを学び、そのあたりのコントロールもだいぶ上達したが…)愛されること以上に愛することのできる幸せを日々実感しながら生きてきた自分は、ひょっとしてものすごい果報者なのかも知れない。
そんなわけで私は、死んだら絶対に生き返らない自信がある。

※さらなる追記は次の記事にて…