男のロマンとは大いなる無駄である

ana3.jpgあな
谷川 俊太郎
福音館書店 1983-03


by G-Tools
ジェンダーフリーの概念が一般に浸透しつつある昨今、
男らしさ・女らしさを語るのは時代錯誤なのかも知れない。
それでも女の私から見るとどうしようもなく男は男である。
我が家の家族構成は老若男女がそれぞれ1タイプずついて

それぞれを観察していて分かったことのひとつに、
男とは行動に理由がいらない生き物らしい、ということだ。
いや、女だって後先考えず突っ走ることは(特に私には)
よくあることなのだが、女の場合はそれがある事象に対する
抗議だったりヒステリーと呼ばれる感情的反応の現れだったり
するのに対し、男の場合はその一見馬鹿げた行動そのものが
目的になっているように思えるのである。

「あな」の主人公の少年ひろしは、作中でひたすら穴を掘る。
穴の用途は、特にない。ただ掘るだけだ。
時間と労力を惜しげもなく無駄にして、無目的に穴を掘る。
そこには何の迷いもなく、端から何を言われようと気にせず掘る。

ひろしの父親には、ひろしの行動が理解できる。
そこに何の目的もないことが分かっているから、質問なんてしない。
夢中になったひろしが満足する以前に体力を使い果たし、
せっかくの無駄な努力がただの無駄に終わらないようにと、
「あせるなよ」と声を掛けていく。素敵な父親だ。

ようやく自分の行動に満足したひろしは、掘るのを止めて穴の中に
しゃがみこむ。芸術家が完成した自分の作品を愛でるように、
しみじみと自分がつけた土壁の堀跡に触れて自己満足に浸るひろし。
言葉少ないやり取りから、父親が彼の心に共感していることが分かる。
心ゆくまで達成感を味わったひろしは、立ち上がって穴からはい出すと、
また一人で穴を埋める。ここで読者はひろしの目的は「掘ること」
だったのだと思い知る。穴を埋めてこそ、ひろしの作業は完成するのだ。
最後のページは、何事もなかったように元通りになった地面。

幼いコドモは性別に関わらずこういう無駄な事を夢中になってやる。
それがいつの間にか、女の子から先にその無心な遊びから卒業して
しまい、同級生の男子を見て「ガキねぇ」なんて思ったりする。
この時期からいきなり男女の精神年齢に差がついてしまうのだが
それはもう生物学的に定められた法則なのかもしれない。
子供を産めば否が応でも母として大人にならざるを得ない女に対し
死ぬまでコドモでいようと思えばいられる男たち。
(もちろんコドモのまま母親になってしまった女性や、父親として立派に
成長して責任を果たしている男性も大勢いる。分かってますって!)
そのせいか、無邪気な幼児の頃と変わらない情熱で無為無益なことに
金と労力を費やし「オタク」や「道楽者」として周囲に認知されるほど
徹底して趣味を極めてしまうのは、やはり男性が多いようだ。
小憎らしいことに、こうした「少年の心を忘れない」壮年男性の中には
不思議なほど老けずに人間的魅力にあふれる人も少なからずいたりして、
かくして大いなる無目的の成果が男のロマンとして美化されていくのだ。

私自身のこの絵本との出会いは確か小学校3,4年生の頃で、
近所の耳鼻科の待合室にあったのを読んだのが最初だ。
当時の感想は「やりたいことを好きなだけやれていいな」ぐらいのもの
だったと思うが、隣にいた母の感想は「あら、せっかく掘ったのにもう
埋めちゃうなんて、もったいない!」みたいなものだった。
幼心に「分かってねーなー!」と思ったのをおぼろげに覚えている。
そんな母は還暦をとうに過ぎてなお男のロマンを捨てきれずにいる
(というより単に自己中なオスガキから成長していないだけの)父と
未だに価値観の相違で四六時中もめている。
どっちの諦めが悪いのやら。