器用貧乏の悲哀

4894322668ペーテルおじさん
エルサ・ベスコフ 石井 登志子
フェリシモ 2002-04

by G-Tools
すこし前に絵本おじさんの東京絵本化計画の記事を読んで、「ペーテルおじさん」のことを書きたくなった。が、前回の記事をアップした直後にギックリ腰再発の憂き目にあい、腰痛&座骨神経痛でパソコン前に長時間座っていられなくなってしまった。もはや無理のきかない身体であることを思い知らされる。そんなわけで初めて布団に寝転がりながら記事を書いてみたが、久々にワープロの手を借りずに込み入った文章を書いて、自分がいかに漢字が書けなくなっているか思い知らされる。恐怖の老化の自覚2連発。散りゆく枯れ葉にいつになく親近感を覚えつつ秋が暮れていく。
 

ペーテルおじさんは何でもできるスーパーおじさんである。町の人々はありとあらゆることを遠慮無くペーテルおじさんに頼み、彼は当然のように快く何でも引き受ける。ところが、誰一人、おじさんがしてくれた仕事に報酬を払おうとはしない。おじさんがそれを要求しないからだ。皮肉なことに、才能あふれるおじさんに唯一欠けていたのが「商才」だったのだ。

人は、あまりにも平易に提供されるサービスに対しては(そのクオリティにかかわらず)対価を払おうとしない図々しい生き物である。そのかわり、その仕事がいかに貴重で価値があり、習熟や技術力を要する困難な仕事かという、サービスのありがたみを抜け目なくアピールできる者に対しては、ほとんど言い値で金を差し出してしまう単純な生き物でもある。(ブラックジャックが法外な報酬を受け取れるのは、彼が仕事の技術力以上に営業力に長けているからに他ならない)

ちなみにペーテルおじさんはそのあまりにも自分を顧みない奉仕生活がたたって、突如やってきた役人に「ボロボロの自宅をとっとと建て直さない限り、2週間後に取り壊す」と宣告されてしまう。言い逃れも抗議も、人に助けを求めることすらも思いつかない彼は、ただただ途方に暮れる。そこでようやくペーテルおじさんの窮状に気がついた子どもたちや町の人たちが、今度は無償で彼のために尽力し、ことなきを得る。結局ペーテルおじさんはその後も自らの生き方を変えることなく奉仕の道を全うしたらしい。

絵本おじさんはそんなペーテルおじさんの姿に何か心当たりでもあるのか(笑)、彼のブログの記事につけた私のコメントへの返事で、

死んでエピソードが絵本になる人生より
後世に残らなくてもいいから
生きてるうちにいい目をみたいなあ
と今の自分を思い、ペーテルおじさんがもどかしく
なってしまうのです。

と言っていた。それはすごく素直で地に足のついた考え方だと思うが、私はむしろ、ペーテルおじさんのように才能とそれを生かす才覚が反比例してしまった人々が愛しくてたまらない。死んでようやく日の目を見た不遇の芸術家や知る人ぞ知る偉人たちの話は、人間がいかに愛すべき不完全な存在かということを私に思い知らせるのだ。


ところで、ペーテルおじさんに自活の道はあるのだろうか? もちろんある。私が思うに、彼が自力で稼ぎたいならば、宗教家になるのが手っ取り早い。なにしろ「何をやっても商売っ気を感じさせない」という、聖職者を名乗るにうってつけの素質のあるおじさんである。教養も充分で公正さや思いやりもある彼は、優秀なプロモーターがつけばあっという間にカリスマに仕立てられ、人々は決して求められないお布施を自分から捧げようと殺到するだろう。もっとも、それで彼が以前より幸せになれるかというと、それはまた別の問題だ。