失望感をリセットするおまじない

何をやってもうまくいかない時がある。一日の始まりから立て続けに失敗や災難に見舞われると、「ひょっとして今日は厄日か?」とイヤな予感が頭をかすめる。でもその気持ちに囚われてしまうとますます厄災を呼び込んでしまうような気がして、何とか気持ちを切り替えようと無理に笑ってみたりする。それぐらいじゃどうにもスッキリしないという、一度凹んだ気分のリセットが苦手な貴方にオススメの絵本がある。

きょうはとびきりの上天気。いつも失敗ばかりのおじいさんも何だか気分一新で、朝から張り切っておばあさんの手伝いをしようとする。ところがおじいさんが張り切れば張り切るほど、仕事はうまくいかず失敗ばかり。それでもおじいさんはめげたりしない。しばし考え込んだあと、おじいさんはやおら傍らの小石を拾い上げると、明るい声でおばあさんにこう言うのだった。

「ほれ、おばあさん! みてごらん。な、ここに いしころが
あるだろ。さ、手を はなすよ。」

「ほら、おっこちた。」
 こいしが、ぽとんと、じべたに おちました。
「ね、わすれようよ。」
 おじいさんが いいました。

おじいさんの唐突な言葉にきょとんとしていたおばあさんは、やがてその真意を理解する。小石が地面に落っこちた、その瞬間におじいさんの一日はきれいさっぱりリセットされたのだ。従って、それまでの失敗や災難は全てなかったことなのだ。
その後もおじいさんはやることなすこと大失敗するのだが、その度に長靴やらバケツやら手近にある物を盛大に地面に落っことし、やってしまったことの全てを強引になかったことにしてしまう。挙げ句の果てに自分自身が屋根から落っこちる羽目になり、さすがのおじいさんも意気消沈してしまうのだが…
後は読んでのお楽しみ!


気持ちを切り替えるために、自分だけの小さな儀式を行う人は多い。それは日頃我慢している好物をつまむことだったり、熱いシャワーを浴びることだったり、人によっていろいろだ。私の場合はシンプルに「ま、いっか」と声に出して自分に言い聞かすことで焦る気持ちにブレーキをかけ、体勢を整える。ちなみに我が家ではこれを【「ま、いっか」の魔法】と呼び、即効性のある呪文としてなにかと神経質な長女にもよく勧めている。ポジティブシンキングの塊のような夫の場合、ちょくちょく「大勢(たいせい)に影響なし!」という言葉を使っている。
さてこのおじいさんの場合、心境リセットの仕方がいさぎよすぎて少々無責任にも思え、現実に行使されたら周囲の人間はたまったものではない。それでもその民話的に豪快なキャラクターは、小さな失敗に囚われがちな私たちの凹んだ気持ちを笑いで癒してくれる。ちょっぴり心配性のおばあさんが、懸命におじいさんの心に寄り添って前を向こうとする、そのケナゲな夫婦愛にもジーンとして、励まされる思いがする。

考えてみれば、自分が今くよくよと気に病んでいることだって、少なくともそのうちの何割かは、もともとなかったことにしてしまえる些細なことではないか? 現実逃避と言われようと、そんなトホホな自分をも笑って受け入れてくれる家族や友人がいるではないか…?

この絵本での田島征三氏の絵はいつもの力強い具象表現とは一転、かなり抽象的な画風なのだが、やはり眺めているうちに一枚一枚の絵からほとばしる強烈な生命力を感じてドキドキしてくる。おじいさんの全身にみなぎるエネルギー、おばあさんの細やかな感情の揺れ動き、場面展開のスピード感…この鮮烈な絵画表現は、文字だけでは決して伝わらない迫力を持っていて、絵本というメディアの底力を感じさせる。それはコドモにはもったいないようなリッチな味わいなのだが、実際にはコドモの方がオトナの私より2倍も3倍もストレートに絵と文を受け止め、平然と咀嚼し消化してしまう。無邪気なコドモがモンスターに思えるのはこんな時だ。

そしてまた、失望感に心を蝕まれないたくましさを持っているのもコドモ達だ。彼らは嫌なこと、辛いこと、悲しいことを忘れる天才だ。だから失望から自己嫌悪に陥ったりせずに、常に前を向いていられる。健康なカラスは泣いた直後に笑い出し、尽きない好奇心に目を光らせるのだ。
一方オトナは内省を繰り返し、過去の自分の行動に意義をもたせようとする。ダメな時にダメな自分に苦しむのは、せっかく積み上げた自分の努力を無にしたくないというオトナ的な諦めの悪さの現れかも知れない。そこで苦しんでこそ人は大きく成長するのだろうが、ヘタな悪あがきをせず、何度でもふりだしに戻って笑顔で歩き出せる人もまた、尊敬すべき勇気と強さを持っているのだと私は思う。