わたしにとってのわたし

kuma00.jpgぼくはくまのままでいたかったのに……
イエルク・シュタイナー イエルク・ミュラー おおしま かおり
ほるぷ出版 1978-10

by G-Tools

巨匠コンビによる「わたし」レビュー: あなたにとってのわたしに引き続き、自分のアイデンティティとはなんぞや?というあたりを改めて考えさせられる絵本をとりあげてみる。
自分の気持ちが不安定なときには読みたくないと思っていたこの絵本について、そろそろちゃんとレビューを書こうと思うきっかけになった哲学者enzianさんの記事はこちら。
 
森の奥に住む一匹の熊が、冬眠しようと洞穴にもぐりこむ。やがて春が来て、目覚めた熊が外に出ると、世界は一変していた。熊が慣れ親しんだ森は消え失せ、かわりに大きな工場が建っていて、何よりも奇妙なことに、人間たちは一様に彼が熊であることを否定するのだった。混乱しながらも熊は熊として正当な主張を繰り返すのだが、誰一人それを認めてくれる人はいない。やがて熊は少しずつ、熊であることを諦め、自分を見失っていく…
 
感受性の鋭い人や精神的に不安定な状況にある人にとってはトラウマになるかも知れないこの絵本。使用上の注意として、努めて主人公に感情移入をしないように読むことと記しておきたい。
初めて読んだ時、私はうっかり熊の気持ちを案じながら読み進んでしまい、途中から少しずつ自分の気が狂っていくような感覚に捉えられ、背筋に冷たいものを感じてしまった。
 
ある朝、目が覚めたら自分が自分として認識されなくなっていたら? 同じように不条理の極みとはいえ、カフカの「変身」ならば主人公自身が自分の変化を認識でき、なおかつそれが元の自分の変身後の姿であることを周囲にも認識されているだけまだマシなのではないだろうか。このクマのように、自分では今までの自分となんら変わらないと思っているのに、自分以外のあらゆる存在にそれをアタマから否定されてしまったら、あなたはそれでも自分を信じ続けることができるだろうか。
 
最初はたちの悪い冗談だと思うかも知れない。これはひょっとして、スターどっきり丸秘報告(古い)並みに手の込んだビックリなのか??と。でも、自分以外の全世界に今まで信じていた自己認識の全てを否定され続けたら、しまいには狂っているのは自分の方かもという考えが出てきても不思議ではない。
自分が狂っているかも知れないという不安。幸い私はこれまでの人生でその疑惑に苛まれたことはないが、きっとそれは計り知れない恐怖なのだろうと思う。その恐怖故に本当に発狂しかねないぐらいの…。自分を信じる限りこの恐怖と戦い続けなければならないのだとしたら、いっそ相手の認識を受け入れて楽になってしまいたいと思うようになるのは時間の問題だろう。
 
洗脳によるアイデンティティ喪失の過程とはこういうものなのではないだろうか。そして、一度失ってしまったアイデンティティを自力で取り戻すのは相当困難なことに思える。現にこの絵本の熊も、最後にはかすかに残った本能に突き動かされて自分の原点へと帰り着くのだが、彼の思考はそこで停止してしまう。なんとも救いのないストーリーなのだ。
 
普段全く意識していないことだが、人が自分を自分だと認識する拠り所なんて実は案外もろいもので、結局は他者との関わりの中で自分の居場所を確認しているに過ぎないのかも知れない。だとしたら、現実社会での個人間の関わりがどんどん希薄になり、代わりに第三者の意志によって容易に操作されかねないネット上の仮想社会に居場所を求めるような今の風潮の危うさに、そしてまさに自分がその波にしっかり乗ってしまっているという事実に、背筋がうすら寒くなるのは私だけではないだろう。