愉しきバーコード・ワンダーランド

まいごになったおにんぎょう
A.アーディゾーニ文 / E.アーディゾーニ絵 / 石井 桃子訳
岩波書店 (1983.11)
 
スーパーマーケットが好きだ。
しかしそこは私にとって、大好きだからこそ出来るだけ近寄らないように自制している禁断の園でもある。何しろ、必要な物だけを買って店を出ると言うことが出来ない。特に、こだわりのパンや総菜・珍しい輸入食材やら製菓材料などが並ぶいわゆる高級スーパーの類に弱くて、一歩足を踏み入れたが最後なかなか出られない。(余談だが、この手のスーパーでは買った物を店の人がレジ横で袋詰めしてくれるのがちょっと嬉しい♪)大抵は買い物リストという武器を手にしているものの、敵はあの手この手でこちらの好奇心と五感とを刺激してくるので、あっさり陥落してしまうのが常なのだ。かつて私は何とかこれを突破しようと考えて、タイムアタック方式で買い物をしてみたことがある。やり方はごく単純で、ストップウォッチ片手に店内に足を踏み入れた瞬間から買い物リストをクリアして出てくるまでのタイムを計るだけ。結果はムダ遣いゼロ&時間短縮で一石二鳥という素晴らしいものであったが、タイムを競う相手がいない空しさと他の買い物客の訝しげな視線がネックとなり残念ながらあれから一度も決行していない(^^;)
 そんな大好きなスーパーマーケットも、子供を産んでからはとんと足が遠のいた。今思えば、彼らが自力で身動きできない乳飲み子の時分には、多少荷物にはなるが自分にくくりつけてしまえばスーパーでカートを押しての買い物なんざ楽勝だった。問題は敵が二足歩行の上達と共に口も達者になる2歳あたりからだ。子連れの買い物の何が辛いって、「買って買って!」攻撃からの防御と本能のままに行動するコドモらに人間社会のルールを教えるのに疲れ果て、気が付けば悪魔に魂を売り渡しストレス解消と称して自らリストにないオトナ仕様スイーツを買ってしまったりすることだ。帰宅後にふとレシートを見ては「他より50円安いものを買うために行った先で500円も無駄遣いしてどうする…orz」とやるせなくなり、疲労感倍増である。しかしそんなことが度重なるうちに私も学習し、だんだんと日常的な買い物の多くを生協や各種ネットショップのオンライン注文で済ませるようになった。今では野菜はここ、肉はあっちで魚はこっち、乾物や加工品はここ…といった使い分けもバッチリだ。 これがなかなか快適で、労せずしておいしくて良質な食材が手頃な価格で手に入る上、「買って!」攻撃はもちろん自分自身の衝動買いもほぼ防げるので、送料を払っても家計的にはむしろ安上がりだったりする。結果的に街中のスーパーや商店での買い物は本当に急場しのぎでの単品買いか、買い物そのものを楽しむレジャーとしてのショッピングにほぼ二分されるようになり、やりくり上手で優雅な生活を送るお利口マダムになったような錯覚すら覚える今日この頃である。
 
さて、そんな子連れ買い物の悲喜こもごもをご存じの方はもちろん、単なるお買い物好きの人にも是非是非おすすめなのが今日の絵本、「ピヨピヨスーパーマーケット」である。
にわとりさんちの奥さんはぴよぴよと元気な子供たち5匹を引き連れてスーパーへお買い物。母一人で5人の幼児連れ…しょっぱなからかなり無謀である(^^;) 案の定、ひよこたちはスキを見て母親からこっそりカートを奪い、お菓子売り場へ直行! 5人それぞれにお気に入りのお菓子をじゃんじゃんカートに入れて、ちゃっかりレジに並ぶ。大浪費であわやにわとり家の家計あやうし!というところで母親が追いついて無事山盛りお菓子はキャンセルされ、買い物リストにあった夕食の材料だけを買って事なきを得る。かろうじて飴ちゃん1個ずつをあてがわれたヒヨコたちがベソをかきながら言う台詞がいい。
 
  せっかく いっぱい えらんだのに…
  ぜんぶ いるもの だったのに…
  そんなの かっても つまんない!

 
彼らの気持ちはよく分かる。コドモの目から見ればそのまま食べられない食材なんてつまんない商品に他ならない。もちろん私も幼い頃よく母の目を盗んでこっそりお菓子を買い物カゴに入れ、会計前に売り場に戻されてブーたれたものだ(笑)。
さて、お菓子の山の夢破れガックリと肩を落として家に帰り着いたヒヨコたちをよそに、買い物リストを制覇した母は余裕で夕飯の準備にとりかかる。いつもは楽しいお風呂でも何だかしょんぼりして元気の無い子供たち。でも、お風呂上がりにはとっても嬉しいサプライズが待っているのだ♪
ばんざーい だいすき おかあさん!!
 
何度読んでも楽しくて嬉しくて開く度にニコニコしてしまう大好きな絵本だ。スーパーの棚にズラッと陳列されたカラフルな商品を一つ一つ確かめるもよし、やんちゃで一見無表情だけど何気ないしぐさがとびきりキュートなひよこ達の動きを追うもよし、とにかくどの頁も見ていて飽きない。初めて読んだ時、食品売り場の品揃えや値段などが妙にリアルで感心してしまったのだが、ふと奥付を見ると「取材協力:クイーンズ伊勢丹とあり、なるほど私が心惹かれるのも納得である(笑)。ヒヨコたちの行動もとにかく可愛くて、よく見るとちゃんとそれぞれのお菓子をを兄弟人数分カートに入れているのがいじらしい。にわとりのおとうさんとおかあさんの姿からも、子供たち一人一人を慈しむ大らかな愛情がじんわりと伝わってきて、しみじみと家族っていいな〜と思える幸せな絵本である。
作者の工藤ノリコさんの絵本をこのブログでとりあげるのは2回目だが、本当にこの方は幼児特有の屈託のない自己中ぶりとそれを上回る可愛い気をよく捉えて描くなあとしみじみ感心してしまう。こういう「コドモのいる暮らし」の生活感がある細部書き込み系の絵本といえば島田ゆかさんのバムとケロシリーズも人気があるが、あちらのファンの方にもぜひ工藤さんの絵本を読んでみて欲しいと思う。
 
 
さらに、スーパーマーケットと言えば外せない絵本がこちらの2冊。どちらも古いが私のお気に入りだ。ひたすら明るく清潔でまるで巨大コンビニのような日本のスーパーとはまた違って、何となく風情のある英国のスーパーマーケットの雰囲気が素敵で、読む度に絵の隅々までチェックしてしまう。
 
「まいごになったおにんぎょう」A.アーディゾーニ/E.アーディゾーニ
子どもの頃、「スーパーに住めたらいいのに」と本気で思っていた。食べ物だって日用品だって何でも食べ放題・使い放題だし(そりゃ窃盗だっちゅーの)これぞパラダイス!と妄想したものだ(笑)。手芸やおままごとやドールハウスが好きなガーリーな貴方に是非オススメしたい一冊。
 
「パディントンのかいもの」M.ボンド  
輸入食材を扱うスーパーでカートを押しつつブラブラしていると、いつもこの絵本のパディントンを思い出す。で、思わずマーマレードを追加したりして(笑)。大型カート2台に山盛りをお買い上げだなんて、一生に一度ぐらいやってみたい。残念ながら絶版らしいので図書館などで探して読んでみて欲しい。

罪深きイノセントガール

あらしのよるに ちいさな絵童話 りとるあらしのよるに ちいさな絵童話 りとる
きむらゆういち / あべ 弘士

講談社 1994-10

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マルラゲットとオオカミマルラゲットとオオカミ
マリイ コルモン Marie Colmont Gerda Muller

パロル舎 2004-02

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学生時代の女友達でアイドル並みに可愛い娘がいた。見た目の可愛さもさることながら、甘え上手であぶなっかしい雰囲気に「ほっとけない!」と寄ってくる男が後を絶たなかった。寄ってこられた彼女(仮にY美としておこう)の方はごく素直に男達の好意を受けるのでタクシー代やら食事代なぞ払ったことがないという。一方私の男友達にも何人か彼女に好意を寄せる者がいて、なんとかY美をおとそうと日々奮闘していたのだった。
さてこういうサンプルが身近にいると、下手な恋愛論を読むよりもよほど分かりやすく男女関係の法則を学べる。面白いことに、男性の多くはあまりにもスキがありすぎる女の子を前にすると征服欲よりも庇護欲が勝るらしく、「それ絶対チャンスでしょ!!」って時にも手が出せないものらしい。
ある日、飲み会で遅くなったY美を私の男友達Nが家まで送っていった。千鳥足の彼女を抱きかかえて部屋に入り、ソファに座らせるともう寝息を立てている。無防備そのものの彼女を前に、Nはほとんど理性を失いかけたが…ふと正気に返ったY美に「あれ、Nくん送ってくれたの?ごめんねぇ〜!でもありがとう…あ、今、お茶入れるね♪」とニッコリと微笑まれ、「ああ、こんな良い娘を一瞬でも襲おうと思った俺のバカバカバカ!!」と深く反省したという。
後日「本当にNくんていい人よね〜♪」と無邪気に語るY美に対し「あんたって残酷…」と思わずつぶやいた私は、彼女が本当に送り狼になるタイプの男には決して甘えないしたたかさな一面を持っていることを知っている(笑)
 
相変わらず枕が長くて申し訳ない。今回の絵本はリクエストにお答えレビュー第2弾「あらしのよるに」である。
リクエストを寄せてくださったぴぐもんさん、ありがとう&お待たせしました!
 
巷でこれぞ感動作と名高い作品ほどとかく辛口評になりがちなオトナノトモであるが、今回もご多分に漏れず少数派の書評となるので、作品ファンの方には予めお断りしておく(^^;)。
シリーズ全7巻を一読して、最初の設定こそなかなか面白いと思ったが、読み進むうちに前述のY美とNのことを思い出し、「ガブ悲惨だなオイ!」という思いばかりが強烈に印象に残った。禁じられた関係ならではの泥沼もオトナ界の話ならば人生色々ということでそれなりに深い味わいにもなり得るのだろうが、いかんせん明るく平和な童話的世界が背景にあるため、一言で言うと読めば読むほど気持ちが悪い。どれぐらい気持ち悪いかというと渡辺惇一の不倫モノを無理矢理ハッピーエンドにしてコドモ向けの絵本に仕立ててしまったような気持ち悪さである。本来ドロドロにこじれてしかるべきオトナの世界を中途半端に明るく都合良く描いてしまったことでツッコミどころ満載となっているのだ。
 
ではなぜこれが世間ではこんなにウケているのかというと、ぴぐもんさんの「冬のソナタじゃあるまいし・・・」というスルドイ指摘がまんまその答になっている。運命のいたずら的設定に始まってハラハラドキドキのアクシデントの連続、秘密、葛藤、数々の障害や悪運を乗り越えて辿り着く奇跡のハッピーエンド…大衆受けするエンターテイメントの要素がたっぷり盛り込まれている上、長文読解が苦手な人にもとっつきやすい台詞中心のシンプルな文体&エピソード単位でまとめつつも次回作への興味をそそる連ドラ方式。これが月9ドラマなら高視聴率間違いなしだ(笑)。さすが「童話作家ほどオイシイ商売はナイ」と豪語するミリオンセラー職人の仕事は隙がない!
 
恋は障害があるほど燃え上がるなんて話もあるが、自分の感情あるいは欲望のままに突っ走れば、自分だけでなく相手も周囲も不幸に陥れてしまう可能性があり、何らかのカタチで結果の責任をとる羽目にもなる。そういった人間の業のダークサイドに敢えて焦点を当てれば、破滅へと突っ走る退廃の美学が成り立ちもするのであろうが、残念ながらこの一連の作品にそんな深みは感じられないし、あったとしても読み手のお子様お母様方に歓迎されるとは思えない(笑)。結局タブーにつきものの道義的責任を無視して強引に感動作に仕立て上げているという印象は否めないのだが、現代人はよほど感動に飢えていると見え、案外そんなことに目くじら立てる人は少ない。
よほどストイックなベジタリアンでも無い限り、食物連鎖上では間違いなく狼に近いはずの人間が何の疑問もなく弱者である山羊に自分を重ねて狼の優しさに涙している不思議。本能に従っているだけで一方的に悪者にされた狼たちは人間たちのご都合主義にへそで茶を沸かすだろう。案の定、大絶賛のレビューが並ぶ大手書評サイトとは対照的に、狼好きが集う某所では辛口評ばかりがズラリ。無論、私えほん「うるふ」がどっちに共感したかは言うまでもない。
 
築く関係が恋愛であれ友情であれ、タブーを越えた関係にはそれなりの覚悟が必要である。その覚悟とはすなわち「ハッピーエンドで終わらない覚悟」だ。「いずれ来る別れを受け入れる覚悟」と言ってもいい。全ての動物が仲良く暮らすのが常識の絵本の世界で、ことさらそのタブー性を話題の中心に取り上げるならば、たとえ童話であっても、いや、コドモが読み手になりうる童話であるからこそ、自然界の法則を安易にねじまげて語ることに私はとても抵抗を感じる。なぜなら、そんなことが出来てしまえるのは弱肉強食という大自然の掟を無視して食物連鎖の頂点にのし上がっている我々人間だけだからだ。何かをやれる能力があるからと言って、それをやる資格があるとは限らない。ヒトはあくまでも生物界の一構成員であって、神ではないのだ。
 
 
最後に、数ある捕食関係のタブーに挑んだ絵本の中には私も気に入っている作品がいくつかあるので紹介しておこう。
 
「きつねのおきゃくさま」あまんきみこ/二俣英五郎 私的オススメ度★★★★★ 小2の娘の教科書音読の宿題を聞いて不覚にも泣いた。まさにえほんうるふの目にも涙(笑)
 
「おまえうまそうだな」宮西達也 私的オススメ度★★★★ ベタですが、タイトルが最高。同じシリーズ物でもこうも違うか。
 
「マルラゲットとオオカミ」コルモン/ミューラー 私的オススメ度★★★★★★★ 知名度は低いが超オススメ! 動物好きの子供にこそこういう絵本を読ませたい。絵も大好き。
 
ちなみにいずれの作品も上記の「覚悟」をきっちり全うしており、「あらしのよるに」シリーズの展開に納得できない我が同志には特にオススメである。ぜひ一読あれ。

全ての老女は妖怪である

つえつきばあさんつえつきばあさん
スズキ コージ

ビリケン出版 2000-06
売り上げランキング : 478450
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この季節、街を歩くとオレンジ色のカボチャのモチーフをそこらじゅうで見かける。商業化されたお祭りが大好きな我らが日本人は万聖節の意味も知らずにハロウィンパーティのバカ騒ぎに興じるのである。ましてハロウィンと言えば、日頃品行方正で通っているアナタも大手を振ってコスプレを楽しめる年に一度のチャンスである。同じアホなら踊らにゃソンソン、さあアナタもご一緒に…
  
ところでハロウィンというと思い出す絵本がある。別にハロウィンとは無関係の内容なのにナゼか私の中でリンクしているその本は、スズキコージ氏の「つえつきばあさん」である。
タイトル通りこの絵本の主人公は杖をついた老婆なのだが、そのキャラがとにかくステキに怪しくてイカすのだ。赤頭巾をかぶり杖をつきながら町を歩くその姿は中世の魔女を思わせるが、妙にポップで全然怖くはない。しかし、何食わぬ顔で「ギイと入り」「ギイと出て」くるとあら不思議、婆さんが増殖している。叩けば増えるビスケットならぬ、入れば増えるつえつきばあさん。ひたすら「ギイと入り」「ギイと出て」くる繰り返しの妙に乗せられているうちに婆さんは20人にもなり、しまいには村の広場で輪になってつえつきおどりを踊り出す。
この怪しすぎる婆さんがいったい何者なのか、作中に一切の説明はない。そもそも「3年に一度のつえつきばあさんまつり」っていったい…(汗)。祀られているはずの存在が自ら村人の前に大挙して現れて踊り狂うとは、まさに奇祭中の奇祭である。よく見ると、恐らく3年に一度現れるのであろうつえつきばあさんの神(?)が上空で満足そうにことの成り行きを見守っている。祭りが終われば婆さんたちは連なって元来た道を戻り、やっぱり「ギイと入り」「ギイと出て」気が付けば一人になっている。すっかり妖気が抜けた婆ちゃんは、祭りの余韻を楽しむかのように一人そっとつえつきおどりを踊ってみたりして、何だかカワイイ。羊にくるまって満足げに眠りにつくその姿は何とも幸せそうで、充実の老後を思わせる(笑)。
コージズキンならではのとんでもなくシュールな展開に味のあるエンディング、ファンにはたまらない一冊だ。
 
ちなみに何かの本での読んだスズキコージ氏へのインタビューによると、氏が好んで旅をする東欧の片田舎ではまさにこんな風貌の老女が当たり前に村道を行き来しているそうで、もちろんこの作品もそんな旅の道すがら生まれたとか…。さもありなん、ドラキュラの故郷トランシルバニアあたりでは今も数年に一度の知る人ぞ知る奇祭が催されていそうだ。
 
 
そんなことを考えていたら、幼い頃テレビでよくやっていた「あなたの知らない世界(うろ覚え)」を思い出した。この番組ではいわゆる都市伝説や読者からの投稿エピソードなどを元に再現ドラマを作って見せていたが、ある日出てきたのが「山道の老婆」であった。
「車で山道を走行中、老婆とすれ違った。しばらく走り続けると、また同じ老婆とすれ違う。気のせいだろうと通り過ぎるのだが、3度目に遭ったときにはさすがに不気味になり、確かめようと恐る恐る近づいてよく見ると、老婆は初めて顔をあげ、ニヤリと笑った。車はその直後崖から転落してしまった…」とかなんとか。
今聞けば怖いと言うよりむしろ笑い話だが、幼心に「ババァ恐るべし」という先入観を植え付けるには十分な効果があり、そのテレビを見てからしばらくは車中から外を眺めて老婆が目に入ると慌てて目を背けたものだ。
ちなみにこの手の「高速移動する老婆」の話は全国各地に流布していて、今だに「マッハばばあ」だの「ターボばあちゃん」などの愛称で呼ばれ都市伝説界の人気者である。なんのことはない、それらのドライバーが迷い込んだ山中ではたまたま3年に一度のつえつきばあさんまつりが開催中だったのだろう(笑)。
 
  
それにしても、自分もいずれなるであろう「老女」という存在は、なぜか男性の「老人」と比べて怪しいイメージがつきものである。人は老いの末には無邪気でワガママな赤ん坊の境地に戻っていくらしいが、女性の場合はそう簡単に一生分の紆余曲折を無にしてたまるかという女の意地があるのかも知れない。
 
また、世の中には文字通り年齢不詳の女と呼ばれる人々がいて、その堂々とした妖しい佇まいこそ全ての女性が心の隅で憧れている理想の老いの姿ではないだろうか。
実はそんな女性が私の住むマンションにも一人いらっしゃる。ご夫婦二人で暮らしていて、敷地内で会えばとてもにこやかに挨拶をしてくれる。が、過去には管理組合で敵対したオバサンと激しくやり合って相手を引っ越しに追い込んだことがあるとかで、敵に回すとかなり怖い人という噂がある。そんな彼女はいつも小綺麗にしていて所帯じみたところが無く、お肌なんか真っ白。イメージとしては桃井かおり氏のような感じで、間違いなく私より年上なのだが何歳なのか見当が付かなかった。ところが先日たまたまエレベータで一緒になった時のこと。立ち話の流れで先方から年齢を聞かれたので、すかさず「ちなみに○○さんは…?」と切り返してみると、なんと既に還暦間近でいらっしゃった。思わず絶句している私に彼女は「あら私、バケモノって呼ばれているのよ〜。」とカラカラと鷹揚に笑って見せた。
 
結論。老いた女を敵に回すべからず。
 

共依存の甘い罠

お待たせしました。1周年記念で募集したリクエストにお答えしてのレビュー、第1弾です。
本館にてリクエストを下さったprotonさん、ありがとう!

おおきな木おおきな木
シェル・シルヴァスタイン ほんだ きんいちろう

篠崎書林 1976-01
売り上げランキング : 3484
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「大きくなったら、人の役に立てる人になりたい」そんなことを言うコドモがいる。
たいへん立派だが、私はついその耳に「その前に自分を幸せにしなさいよ!」と囁きたくなる。
一生懸命誰かのために働いても、それが報われるとは限らない。いや、報われなくったっていい、自分は奉仕に生きるのだと本人が言い切れるならそれもいい。ただ、誰かの幸せの上にしか成立しない自分の幸せなんて、そんな不安定な人生はできれば選択しないで欲しいのだ。なんだかんだ言っても、親は我が子が誰かの為に命を捧げるよりも、本人が生きててくれる方が嬉しいのだから。
既にたっぷり親孝行をしてくれた子供たちに親が思う「幸せな生き方」を押しつけるつもりはないが、希望ぐらいは言わせてほしい。
 
確かに、誰かの役に立てるのは嬉しくて気持ちの良いことである。
感謝される快感は他の何物にも代え難く、ひょっとすると世の中で一番安上がりな麻薬なのかも知れない。特に、自分なんて何の価値もないと思いこんでいる人にとって、自分の存在を認めてくれる人を得ることは人生の命題であり、相手からの感謝の気持ちはそれをもっともはっきりと実感させてくれる拠り所のようなものだろう。
しかし、無為の行動の結果として感謝がもたらされるのではなく、感謝される為に行動するようになったら、それはもはや不健全だし、お互いにとって危険な状態だと私は思う。偽善とまでいかなくても、自分に自信のない者ほどこの罠にはまりやすいという意味では、同じことだ。
 
「おおきな木」というベストセラー絵本がある。ひたすら与え続ける献身的な愛の姿を描いた絵本として評価が高いが、私から見るとかなりイタイ絵本である。ファンの人ごめんなさいm(_ _)m
幼い少年が木と共に過ごしたかけがえのない時間の描写、これは本当に美しい。だが物語はそこでは終わらない。少年は成長と共に、どんどん木への要求が大きくなる。木はその度に文字通り身を挺して少年の願いを叶えようとするが、ついには愛する少年自身にその身を切り倒され、切り株だけの姿になってしまう。それでもなお木は少年の帰りを待ちわびて、やがて年老いて全てを失って戻ってきた彼を優しく受け入れる。
 
この絵本を初めて読んだ時分は、私はまさしくこの少年の立場に近い子どもだった。単純に「やさしい木だな」と思い、献身的に愛される少年を羨ましく思った。けれど時が経ち色々な人間関係のケースを知るにつれて(要するにオトナの事情を色々と知るにつれ)この絵本の結末が決してハッピーエンドではないことに気がついてしまった。
すっかり汚れちまった、もとい、オトナになった私が改めてこの絵本を読むと、そこに描かれている美しい結末がDV夫とその妻、あるいは親離れできない子と子離れできない親の、痛々しい共依存の姿に見えてくるのだ。
 
木は少年に尽くしたい。たとえ虐げられようと、どこまでも依存され全てを奪われようと、少年に尽くすことだけが木の存在意義なのだ。だから、本当は自立なんかしてほしくない。いつまでも自分を必要として欲しい。「やっぱり私が居なくっちゃこの子はダメなの」と思っていたい。
一方、少年の方はそんな木に甘やかされて一向に自立心が育たない。身体は大きくなってもワガママ放題で要求ばかり。一方的に尽くされることが当たり前に育ってきたから、木の献身ぶりにもさして感謝の気持ちも表さず、欲しいものさえ手に入ればそそくさと去っていく。もちろんそんな甘えた人間が社会で成功するわけもなく、まるで失敗が木のせいであるかのように不機嫌な顔をしてじきに舞い戻ってくる。もちろん木の方は戻ってきた彼を大歓迎し、いつものように甘え甘やかしボロボロの絆を確認し合う。
結局お互いが足を引っ張り合って、死ぬまで成長もせず、幸せにもなれない二人
 
恐ろしいことに共依存関係にはまっている人たちは、自分たちのことを誰よりも愛し合っている最高のパートナーだと思っていたりする。よって目を覚まさせるのは至難の業。
私もかつて大切な人を何とかこの悪循環から引っ張り出したくて説得したり本を読ませたり色々やってみたが、結局本人が関係の異常さを悟って自ら一歩を踏み出さない限り何も変わらないのだった。件の彼女は腐れ縁を精算しようと決心するまでに20年を要したが、今は自由の幸せを噛みしめているそうだ。
 
だから、誰のためでもなく自分のやりたいことをやろう。理想を言えば、自分の幸せを追求していたらいつの間にか誰かをも幸せにしていたという人生が最高だ。その誰かがあなたの愛する人だったら、なお結構。
あなたとあなたのパートナーに、幸あらんことを。

遊び力がコドモの財産

びゅんびゅんごまがまわったら
 
 
家で子どもとトランプをすると、結局ババ抜きと神経衰弱ばかりになってしまう。しかも真剣勝負するとあっさり大人が勝ってしまい、親も子も何だかつまらない。そこでネタを増やそうと「新しいトランプの遊び方」なる本を図書館で借りてみたら、意外にも幼児でも大人と対等に遊べるゲーム法がいくつも載っていた。
しかし、
 ・帽子などを的にして自分の持ち札を順番に投げ、誰が一番たくさん入るかを競う。
 ・床のスタート地点にカードを並べ、一斉に息を吹きかけてゴールまでの早さを競う。
 ・テーブルの端を崖に見立て、それぞれの持ち札を加減して弾いて誰が一番端ギリギリに止められるかを競う。落としたら負け。
 
…これってトランプゲームと言えるのだろうか(^^;)?
 
要するに、トランプを遊び方の決まっているゲームの道具ではなく、単なる遊びの素材(=大きさ・形が同じで滑りが良い丈夫な紙片のセット)だと思えばいくらでもシンプルな遊びができるのだった。はっきり言ってトランプの本来の用途は無視されているが、こういう身体を使う単純な遊びは断然コドモの食いつきがいい。今までになく場が盛り上がり、それから毎晩のように我が家の居間ではカードが飛び交っている。
 
もっとも今ほど既成の玩具が巷に溢れていなかった時代には、子どもたちは皆当たり前に、限られた素材をあらゆる遊びに活用したのだろう。それで思い出した絵本が、「びゅんびゅんごまがまわったら」。
 
子どものケガをきっかけに閉鎖されてしまった校庭脇の自然の遊び場。これを何とか開放してもらおうと子ども達が校長に直訴しに行く。ところがアマノジャクな校長はいきなり得意のびゅんびゅんごまを披露して見せ、
「まわせるようになったら、たのみも きこうじゃあないか。」
と、不敵に笑うのだった。必死で練習を重ね、ようやく技をマスターした子ども達が勇んで校長室をたずねると・・・
 
作中には豊かな自然を素材にした昔ながらの素朴な遊びがたくさん出てくる。そうだ、私たちはもともと誰もが生まれつき遊びの天才で、身の回りの全てを玩具にしてしまうクリエイティブな生き物だったのだ。整地され安全な遊具の揃った校庭に比べ、雑木林にほんの少し手を加えただけの遊び場は危険と隣り合わせだが、それだけに刺激と発見に満ち、子ども達の豊かな遊び力が存分に発揮できる。遊び場を駆け回る子ども達の絵からは歓声が聞こえるようで、一人一人の生き生きとした表情を見ているとこっちまでわくわくと嬉しくなってくるのだ。
また、この絵本の魅力はなんと言ってもこの校長先生のキャラクターだ。一見頑固な意地悪じいさんかと思いきや、実は素知らぬ顔で憎まれ役を引き受けつつしっかりと子どもの持てる力を引き出す名コーチなのだ。特に私のお気に入りは、嬉しさをこらえた憮然とした表情で柿の実の首飾りをして朝礼台に立つ校長の姿。本当は子どもが好きでたまらないくせに、つい憎まれ口を叩いてしまう校長の分かりやすい偏屈ジジイっぷりがたまらない。
子どもの絵に定評のある林明子さんが描く主役級の大人は珍しいが、オトナならではの人間的魅力がばっちり伝わる表現力はさすがである。
 
 
モノがあふれる今の時代に親をやっていると忘れがちなことがある。それは、必要が発明の母ならばその逆もまた真なり、ということだ。つまり、遊びへの情熱から生まれる発想の豊かさは、与えられる物質の豊かさに反比例してしまうらしいのだ。私がそれを実感として分かるのは、自分がかつて無分別に玩具を買い与えて子どもの豊かな遊び力をスポイルしてきた張本人だからだ。
 
きっかけは8年前。初めての子に舞い上がって玩具を買い込むうちに、親の自分が玩具の世界にはまってしまった。特に木製玩具や輸入玩具に関しては周囲にオタクと呼ばれるほどで、しまいには内外からオトナ買いで取り寄せあっという間に家中が玩具だらけになった。もちろんとても遊びきれず、一軍二軍三軍と分けて時々入れ替えながら子ども部屋に置いたりもしたが、子ども達の興味は散漫になるばかり。そんなある日、色とりどりの玩具の山を前に子どもが言った。
「あーあ、たいくつ!」
平手を食らったようなショックと共にようやく目が覚めた私は、その日からさっそく玩具のリストラに着手。子どもたちと相談しつつ、片っ端から売ったりあげたり寄付したりで処分した。残ったものは、ごくシンプルな積み木とブロック、文房具一式、折り紙・ビー玉・布・紐などの素材系、厳しい審査をクリアしたぬいぐるみオールスターズ、ジグソーパズル、ルールの単純なボードゲームとカードゲーム、楽器類とボールや乗り物などの遊具類が少し。ああ、こうして書き出すとまだまだ多い…(^^;)
 
玩具がごっそり減った我が家で子どもたちが退屈しているかというとむしろ逆で、毎日とても楽しそうに遊んでいる。最近は家で遊ぶ時間のほとんどを工作とごっこ遊びに費やしているようだ。工作では、家中の不要品をかき集めては競うように謎の物体を作りまくる。おかげで激化した空き箱争奪戦の飛び火がくるわ、せっかく玩具が減ってスッキリしたはずの部屋が余計散らかるわで親は泣けてくる。一方ごっこ遊びの方は最近読んだ絵本と映画にインスパイアされるらしく、「親を亡くしたベジタリアンのあざらしと、その飼い主となる心やさしい鮭の出会い」など、端で聞いているとそのまま絵本になりそうなシュールな世界が展開されていて面白い。
これが8歳と5歳になる子どもの遊びかというと何だか幼稚な気もするが、衰えた遊び力のリハビリとしては上々だろうと、ヒソカに母はホッとしているのだった。
 

地道な食育、過激な食育

tabemono.jpegたべもののたび
かこ さとし

童心社 1976-10
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スーパーサイズ・ミー 通常版
スーパーサイズ・ミー 通常版モーガン・スパーロック ドキュメンタリー映画

おすすめ平均
stars毎食30日間マックだけを食べ続けたドキュメンタリー

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主に自分の手抜きが目的で月1〜2回ファーストフードを利用している。夏休みともなるとさすがにネタも気力も尽きて、先日も子連れの外出帰り、街灯に吸い寄せられる虫のように黄色いMのマークに吸い寄せられた。
子ども達はオモチャ付きのセットを選びニコニコだったが、お腹が空いていたはずなのに結局ほとんど食べず、オモチャをいじるばかり。食べないの?と聞けば「おいしくない。気持ち悪くなるから残していい?」とのたまう。どうせ後で腹が減ったと騒ぐくせに…と思いつつ、ジャンクフードと知りつつ食べさせている後ろめたさから「残さずたべろ」とも言えず、かといって食べ物を捨てるのもイヤで、結局自分が食べ残しを完食して気持ち悪くなった。
 
その夜、今回の彼らのワガママは栄養学的にはむしろ望ましい自然な選択では?と夫に指摘され、安易に利用して食育を矛盾させている自分を反省した(^^;)。そして、せっかくなのでこれを機に食物の選択と身体への影響について親子でもっと突っ込んだ話をしようということになり、翌日、映画「スーパーサイズ・ミー」を家族みんなで観たのだった。
 

さて、子供たちの感想は「誰だって毎日あればっかりたくさん食べてたら病気になるよね」と、案外冷静。
「そうだよね、モノには限度ってもんがあるよね。」
「でもこれは映画だからわざとやってるんでしょ。」
仰るとおり。コドモの視線はけっこうスルドイ。もちろん映画の演出として極端な設定のもと行われた実験であることは監督自身も認めていることだが、真っ当な限度感覚を麻痺させる罠がそこにあり、それこそが子供たちの身にせまる危険なのだという警告も彼は伝えていた。作中では子供をターゲットにする(=年少時にブランドロイヤルティを刷り込む)マーケティング手法の狡猾さが主張され、常に企業論理が優先される米国の教育現場や社会背景の危うさも暴露されていた。高校時代、米国滞在中に過食症になり1年で5kg太って帰った自分はまんまとアメリカ資本主義に乗せられたアホな若者だったというわけだ。
また、作中で紹介されるアメリカの学校給食の実態や、実際に激太りして体調に異常を来していくモーガンの姿は子供にはかなりショッキングだったらしく、何やらおびえた表情で画面を見つめていた(笑)。とにかくこの作品はツッコミどころ満載で見終わった後も話がはずみ、普段子供が意識しない「売る側の論理」について親子で話し合うきっかけにもなった。食育教材としては相当ラジカルな内容だが、話が食育だけに留まらない、興味深い作品であった。
 

ちなみに我が家では普段特にストイックな食生活をしているわけでもなく、どちらかというと「安全性」よりも「おいしく食べる」ことを優先している。ただ食育といえば、幼少時から繰り返し読み聞かせている一冊の絵本が思い浮かぶ。その絵本、かこさとし作の「たべもののたび」は、その名の通り、口から入った食べ物が体内を巡って役目を果たし体外へ排出されるまでの旅路を描いた、加古氏ならではの分かりやすく楽しい科学絵本である。
口から旅をスタートしたたべものたちはまず、喉のトンネルとその先の細い道(食道)を抜け、胃袋公園にたどり着く。そこでもみくちゃにされたあと小腸公園の長いジェットコースターに乗せられ、ここで持ってきた荷物(栄養分)は全て振り落とされ没収されてしまう。すっかりへとへとになった食べ物達はさらに大腸公園で残った水分さえ搾り取られ、スカスカになって身を寄せ合いヨロヨロと出口へと向かうのだ。こう書くとたのしい旅というより悪徳ぼったくりツアーのようだが、それが食物の運命なのだから諦めてもらうしかない(笑)。
 

構造も原理も知らずに文明の利器を使いたおす現代人よろしく、私たち人間は人体という超ハイテクシステムの内側を何ら意識することなく毎日使っている。お腹が空けば動けなくなる、食べれば元気になり身体も成長する、動いて出すモノを出せばまたお腹が減る…それぐらいのことは幼児でも本能的に理解しているが、実際に口からいれたものがどのように体内で作用するのかということには、子供ならず大人でも驚くほど無頓着な人が多い。のど元過ぎれば我関せずとばかりに、味にはうるさいグルメでもノドから先に関してはブラックボックスのままで平然としていたりするのだ。かく言う私も、「たべもののたび」をウンザリするほど繰り返し読んだおかげで食物の摂取から排泄までの基本はバッチリ理解しているが、この絵本で説明を省かれている他の臓器の働きについてはかなりあいまいな知識しか持っていない(恥)。
しかし、高性能な機械ほど使い方を誤れば危険が大きいのは私たちの身体も同じ。まして人体システムは順応性が高く、相当無茶な使い方をしても本当に破綻するまで平然と稼働してしまうのが怖い。
せっかく授かった唯一無二の高性能マシンを長く愛用したいなら、やはり基本的な構造ぐらいは理解して負荷のかけすぎや連続稼働は避けるべきだろう。もちろん、定期的な点検とメンテナンスも忘れずに。
 
ところでその後の我が家の子供達だが、街でMの看板を見かけても「ハッ○ーセットだ!」と騒がなくなった。それどころかコドモ同士でヒソヒソと「あ、マク○ナルドがある」「太っちゃうね」「からだにわるいんだよね」「オモチャもないしね」(なぜかいつも希望のオモチャは売り切れなのだ)「お母さんが行こうって言ったらどうしよう」「他のところにしようって言おうね」…などと相談をしていて、その単純さに苦笑した。
つまり、子供はそれだけストレートに映像メディアの影響を受けるのだろう。
巷に溢れるCMを遮断して生活することはできないけれど、安易に影響されない強い頭と心を育てるには、食育の基本と同じく、好き嫌いなくいろんな情報をまんべんなく採り入れるのが良さそうだ。

はてなダイアラー絵本百選:「算数の呪い」〜理系思考の効用

算数の呪い算数の呪い
ジョン・シェスカ レイン・スミス 青山 南 Jon Scieszka

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理系の人に縁がある。
学生時代から、自分自身は理数系の科目は全滅に近いヒトだったのに、何故か仲良くなる相手はバリバリの理系の人が多かった。
成績は悪くても数学や物理に敵意を持つことなく学生時代をやりすごせたのは彼らのお陰かも知れない。
そういえば、親しさの度合いで言うと女よりも男友達の方が多かったのも、今思えばまるで理系人口の男女比がそのまま反映されたかのようだ。
  
ところで、偶然にも私が親しくなる理系人には以下のような愛すべき共通点がある。
 
 1.要領よく他人に迎合するのが苦手
 2.自分の趣味について語らせると長い
 3.常に自分の中に結論を持っている。
 4.気持ちの切り替えが早い
 5.こだわるところとどうでもいいところの落差が激しい
 
…というか、上記の要素が複数あてはまる友人を思い浮かべてみるとみんな理系だった(笑)。
  
ちなみに私は5番以外は全てあてはまらない。外面が良いぶん優柔不断という、ある意味典型的な文系人間である。
そんな自分にとって彼ら理系人との会話は常に刺激的であり、その大胆な(と、私には思える)理論展開には目からウロコが落ちまくりで、精神的に行き詰まりを感じる時などには非常にありがたい存在となる。
 
 
そんな彼らとの楽しくも刺激的なコミュニケーションを彷彿とさせるのが、この絵本。
冒頭からしてもう、ワクワクさせてくれる。
 
月曜日の算数の時間、フィボナッチ先生がいったのよ、
「みなさん、たいていのことは、
 算数の問題として 
 考えられるんですよ」

 
理系友人たちから学んだ私が思うに、これは真理である。
特に、一旦悩み出すとあれこれ考えすぎてドツボにはまりがちな、そこの文系のアナタ!
これはたいへん実用的な発想転換法なので、覚えておいて損はないです。さぁ、メモったメモった!
 
では、あなたを悩ます問題を今一度、整理してみよう。それはなぜアナタを苦しめるのか?
しがらみにがんじがらめになった人間関係。こじれた恋愛関係。
多すぎる仕事。実力を発揮できない環境。
健康不安、経済的な不安…etc.
割り切れない思いに鬱々とした日々を送っているのは、割り切れないのではなく割り切る為の解法を見落としているからではないだろうか?
まずは、落ち着いて現状のアドバンテージを探して数値化してみよう。
ひょっとするとあなたの不安の正体は発生確率の低い未来のトラブルへの妄想かもしれない。
(ちなみに私の場合はたいていこのパターンなので、経験を積んだ今はいざという時この発想で頭を冷やして早めに落ち込みから脱出するように心がけている。)
 
算数の良いところは、どんな問題にも必ず至るべき唯一の解があることだ。
解法は人それぞれでも、どっちみち同じ解につながるのなら、せいぜいその過程を楽しもうではないか。
だいたい人生でぶつかる諸問題はどれも、必死で解決したところで果たしてそれが「正解」だったのか「不正解」だったのか、死ぬ瞬間まで誰にも分からない。ならばいっそ自分の出した答こそが正解だと信じて前向きに次の問題に取りかかろう。
 
おそらく、人生の成否は問題の正答率ではなくいかに本人が解を求める過程を楽しんだかにかかっているのだ。
泣いても笑っても同じなら、笑っている方が良いに決まっている。

 
※ところで私がはてなダイアラー絵本百選のバトンを受け取ってから既に2ヶ月半が経過してました。
ようやく更新したのでふってくれリストを確認すると…あれ、こんな少なかったっけ(^^;)?
何はともあれバトンは無事、薔薇の写真がキレイだったid:anninさんへお渡ししました。よろしくドゾー